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五稜郭はなぜ五角形(星型)なのか?土方歳三との関係は?

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テレビ番組

北海道函館市にある五稜郭は、観光のスポットとして、
また、市民の憩いの場として、とても人気があります。

すぐそばに立っている五稜郭タワーに上ると、とても美しい
五角形(星形)をしています

桜の咲く季節になると、この星形をした公園が桜でピンク色に
染まります。

ところで、五稜郭はなぜ五角形(星型)なのでしょうか?
そこには、要塞としての役割がありました。

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五稜郭が建てられた理由

五稜郭は、今でこそ観光スポットとして多くの観光客が
訪れますが、実は、江戸時代末期に城郭として建てられたんです。

江戸幕府により安政4年(1857年)に、蝦夷地を管理して
外国から防御するために7年かけて作られました。

武田斐三郎が設計建築した、日本でも珍しい星型要塞(
稜堡式城郭)なんです。

星型要塞とは、15世紀のイタリアで始まり、ヨーロッパ各地に
広まった築城方式で、代表的な建築家の名からヴォーバン様式
とも呼ばれています。

五稜郭の広さは、外周が約1.8km、敷地は約125,500平方メートルで、
東京ドームの約3倍分の大きな城郭です。

実際に行ってみると、入口から堀の内側にある箱館奉行所まで、
歩いて10分ほどかかるぐらい、とても広大な敷地です。

なぜ五稜郭が星の形をしているかというと、堀で囲んだ
星型の先端に、砲台を設置できるようになっていて、
本拠地である箱館奉行所を敵から守れるようにするためです。

5つもの大砲を置くことで、どこかが敵にやられてしまっても、
他の大砲で攻撃し続けられるんです。

星形を形成する、外に付きだした稜堡を5つ配置することで、
守備を行うときには相互にカバーし合い、攻撃するときには
死角を作らないような設計になっています。

五稜郭と土方歳三・榎本武明の箱館戦争をわかりやすく

箱館戦争とは、江戸時代最後の年の慶応4年(1868年)から、
2年間にわたって全国で起こった戦い「戊辰戦争」の、
最後の戦いのことです。

戊辰戦争は、開始した慶応4年(明治元年)の干支が戊辰だった
ことで名付けられ、京都での「鳥羽・伏見の戦い」から始まり、
東北や会津など全国のあちこちで戦いが繰り広げられました。

戊辰戦争はなぜ起きたのか?というと、幕末に起こった「
尊皇攘夷」運動がカギなんです。

尊王攘夷は、「王」である天皇を尊び、外国や異民族の
ことである「夷」を追い払うという意味なんです。

嘉永6年(1853年)に黒船でペリーが来航してからというもの、
江戸幕府は外国からの圧力に悩まされ、それがきっかけで
尊王攘夷が起こります。

当時の日本には、天皇と、天皇の代行として政治を行う
江戸幕府の、2つの権力がありました。

新選組も元々、江戸幕府のもとで天皇と都を守る警察のような
組織でした。

しかし、薩英戦争や下関戦争でイギリスなどの諸外国と
戦った薩摩藩と長州藩は、外国との戦力差を思い知り、
鎖国して国を守るのではなく、外国と交流することで
対等な力をつけ、国を守るべきだと考えるようになります。

こうして鎖国派の江戸幕府と、開国派の薩摩藩や長州藩などは、
対立するようになります。

開国派の人達は、江戸幕府を倒して権力を一つにまとめるため、
天皇の名のもとで新政府軍を作って、江戸幕府が率いる
旧幕府軍と戦いました。

結果は開国派の新政府軍が勝ち、江戸幕府の政権を天皇に返す
「大政奉還」によって、明治天皇は京都から江戸城に住居を移し、
それが現在の皇居となりました。

箱館戦争で旧幕府軍である土方歳三と新選組らが敗れ、
戊辰戦争が終わることで、江戸幕府(徳川将軍家)による、
約260年の江戸時代が終わります。

そして新政府軍が明治政府を作って、明治時代が幕を開ける
ことで、日本は近代化の時代を迎えるのです。

五稜郭は戦場ではなくて本拠地でした

五稜郭は戦場ではなくて、あくまで本拠地であり屯所なので、
土方歳三を始めとした新選組が実際に戦ったのは、その先の
海岸線にある「弁天台場」や「一本木関門」なんです。

「弁天台場」は、現在の「函館どつく前駅」付近にあり、
箱館戦争で新選組らの最後の戦場になりました。

箱館奉行所は、箱館戦争後に一度取り壊されて、2010年に
当時の建築方法で忠実に復元されました。

内部は当時の部屋が再現されていて、資料や映像などを
見学できます。